5.30 「奥戸のあゆみ」シリーズ5回目(最終回)「洪水を防ぐ・大きな道路の完成」

画像1 画像1 画像2 画像2
 5月の朝会では奥戸小学校の開校記念日の月にちなんで「奥戸のあゆみシリーズ」をお話してきました。今日は最終回です。
 今日は、「安全で便利な生活になった奥戸」ということで一つは台風のこと、もう一つは道路のことを中心にお話します。(この写真は100周年記念誌からの写真です。)
 みなさんも台風でたくさん雨が降ったことは経験していると思いますが、昭和22年(今から75年前)の9月には「カスリーン台風」という大きな台風がありました。その台風は関東に大雨を降らせ、葛飾区にも、奥戸にも押し寄せてきました。葛飾区全部が20日間にわたって水につかってしまい、奥戸の家の床が水につかってしまうということがありました。そのことがきっかけで洪水にならないようにしようと、中川に、新しい川を分岐させて掘って、新中川(中川放水路)を完成させました。けれども、新中川(中川放水路)をつくるにあたり、ずっと住んでいた家を手放し、引越しをせざるを得なくなった家が195戸あったと言います。
 また、昭和60年(今から37年前)には、「環七」と言われる学校の前の大きな道路「環状七号線」ができました。そして、今、皆さんが学校として通い始めた奥戸のスポーツセンター(昭和59〜63年開設)もできました。生活は便利になってきました。けれども、この時も、道路をつくるにあたって自分の家を手放さなくてはならない悲しい思いをした人もいました。
 農村だった奥戸は、どんどん住宅地に変化して、ファミリーレストランや大きなスーパーマーケットもできて、今の奥戸の姿となっています。
 奥戸はとても歴史と伝統がある地域です。先日、3年生が「郷土資料室」を活用して「葛飾郷土と天文の博物館」の学芸員の方をゲストにお招きして学習をしました。これから、それぞれの学年も、地域に関する授業を行っていきます。それぞれの学年の学習で「奥戸の地域」にふれ、地域にいろいろなことやものがあり、歴史があることや、よいところなどをもっともっと知ってもらいたいです。
 そして、みなさんには「奥戸小」が好き、自分たちが住む「奥戸」「葛飾区」が好きで自信と誇りをもってもらいたいと思っています。

 だんだんと気温が上がり、暑くなってきました。昨日は真夏日で30度以上だったと言われています今日は28度です。熱中症に気を付けてください。水とうは持ってきていますか。室内でも熱中症になります。のどが渇く前にこまめに休み時間に水分補給をしっかりしましょう。また、マスクにも気を付けていきましょう。運動をするときは外してきたと思いますが、これから気温が上がってくるので息をしにくかったり、汗をかいたりしたときなどは、外して過ごしましょう。暑さや息苦しさは人によって感じ方が違います。マスクを外すことや付けるすることは、自分が我慢することがないようにしていきましょう。


5.23 「奥戸のあゆみ」シリーズ4回目「困難な時代〜学童疎開〜」

画像1 画像1
 今日は、今から78年前、日本が戦争をしていたころのこと、「学童疎開」(戦争がひどくなってきたのでそれをさけるために地方へ移り住んだこと)についてお話します。
 奥戸小学校の100周年の記念誌に載っている田島 義雄(たじま よしお)さんの「学童疎開の思い出」(当時6年生)を短くして紹介します。
 
 私たち第一回の疎開児童117名は二学期の始まる前の月10日夜、引率の先生3名と寮母さんと数名と共に奥戸を出発しました。
 行く前までは、遠くへ遠足に行くような気持ちでワクワクしていましたが、いざ両親兄弟友達に見送られると悲しくて胸が詰まる思いがしました。泣き出す子も大勢いました。
夜行列車で数十時間、新井の町には大きな工場があり、商店もあり、田園地帯の奥戸よりにぎやかな街でした。すぐに、広い大きな寺での集団生活が始まりました。夜になると家が恋しく、悲しくなり、布団の中で泣き出す子、怖くてトイレに行けない子・・・、私も、なぜ参加してしまったのかと後悔しながら、いつか帰れる日を思いながら布団に入る日々で寂しさが募るばかりでした。
 戦争が一段と激しくなるにつれて食料が極度に不足し、空腹の毎日が続きました。サツマイモやカボチャなどを隣村までもらいに行ったこともありました。
学校に持っていく弁当箱には半分くらいしかご飯が入っていませんでした。地元の子のご飯いっぱい詰まった弁当を見ながら、少しずつ時間をかけて食べてお湯で腹いっぱいにしました。・・・(略)

 これは100周年の記念誌に載っているお話です。
 今、テレビで「ウクライナ」のニュースを見たり聞いたりした人もいると思います。
 昔、日本で戦争があった時代、奥戸の子供たちも、悲しく、つらい思いをしていたことが伝わったかと思います。
 今の奥戸のみなさんの生活はどうでしょうか。
 みなさんは、自分の家から学校に通い、おいしい給食も食べています。
みなさんと同じ年の頃の奥戸に通う子供たちが、昔、困難な(大変な)時代があったことを覚えていてほしいです。


5.16 「奥戸のあゆみ」シリーズ3回目 「奥戸村の風景」

画像1 画像1 画像2 画像2
 今日から明日まで6年生が日光移動教室に行きます。その間、校長先生は6年生の日光移動教室に一緒に行かれます。
 そこで今日は、副校長先生からお話をします。今日のお話は、「奥戸の昔」です。
 今の奥戸小学校のある場所は、今から120年前の明治時代は、奥戸村といわれていたそうです。
奥戸小の周りは、広々とした見渡す限りの田んぼと畑の中に家が点々と見えた程度だったそうです。
 このあたりに住んでいた人のほとんどが野菜作りを中心とした農家だったそうです。とれた野菜は、牛車やに荷車に積んで、神田や千住の市場まで運んでいたそうです。昼間は、田んぼや畑の野菜の収穫に追われ、夜は夜中に起きて市場へ行くので、大変な仕事だったそうです。子供たちも家の仕事を手伝っていたそうです。
 でも、きれいな水の流れる用水堀があり、水の中には藻が茂り、フナやエビが泳ぐ川だっったそうです。この用水堀は、北沼交通j公園の道路のところだったそうです。大人でも腰がつくぐらいの深さで、夏には水遊びの場所となり、夏の夜には蛍も飛ぶ川で、大人たちは、洗濯物やふろ場の水としても使用していたそうです。
 続きは、来週に校長先生からしていただきます。今週1週間も、けがなどをしないように安全に過ごしてください。そして、勉強も頑張ってください。

5.9 「奥戸のあゆみ」シリーズ2回目 「ケヤキの木」

画像1 画像1 画像2 画像2
 奥戸小学校の校庭に大きな「ケヤキの木」があります。
 ケヤキの木の幹は大人二人が両手を広げて抱えるほど太いです。   
 4月、ケヤキの木は枝がはっきりしている様子でした。ところが、ぐんぐんと芽吹いて今は、緑の葉がたくさんです。先週、休み時間に走った後、ケヤキの木陰で少し休んでいる友達もいました。
 さて、ケヤキの木は何歳だと思いますか。
 学校は120歳ですが、ケヤキの木は120歳以上だと言われています。
 今日は、奥戸小学校のケヤキの木が44年前の新聞記事に載ったことがあったのでその話をします。
 〜 奥戸小学校の創立当時、ケヤキの木は隣の地主さん(ケヤキの木のある土地の持ち主さん)の庭にありました。ケヤキの木は関東大震災や空襲にも負けなかった木でした。
 奥戸小学校は学校を広げるときに、地主さんから土地を譲ってもらいましたが、その時、地主さんから、「土地の守り神であるこの木を切らない」ことを条件に譲ってもらったそうです。その後、「親しく 互いに励むとき けやきはしげる そよ風に」と、新しい校歌が作られ、「隣の地主さんのケヤキ」は、「奥戸小のケヤキ」になりました。(1988年 読売新聞江東版の記事から要約)〜
 大きなケヤキの木は、ずっと奥戸小学校を見てきました。今も、奥戸小学校の皆さんを見守り続けています。ケヤキの木を見たらこの話を思い出してもらえると嬉しいです。

      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

学校だより

年間行事予定

保健だより

給食だより

給食献立表

登校届

いじめ防止基本方針(概要版)

学校教育アンケート

その他

学校だより平成30年度

移行−学力向上に向けて